北畠 治房(きたばたけ はるふさ、1833年2月20日(天保4年1月1日) - 1921年(大正10年)5月4日)は、江戸時代末期の勤皇家、明治時代の司法官。旧名は平岡 鳩平(ひらおか きゅうへい)、平岡 武夫(ひらおか たけお)。維新後、南朝の功臣北畠親房の末裔を自称し、北畠治房と改名した。
経歴
生い立ちと勤王家としての活動
天保4年(1833年)1月1日、大和国平群郡法隆寺村(現:奈良県生駒郡斑鳩町)で誕生。父は平岡久兵衛(北畠末重とも)、母は筒井村の宮井伊右衛門の娘であった。次男とも、四男ともいう。平岡家は中宮寺の宮仕人をしていたと伝えられる。嘉永2年(1849年)2月に家督を相続する。はやくから碇圓意に漢学を、尾崎庄左衛に国学を、柴田多輔に武術を学ぶ。四方に遊学し、尊王攘夷を唱えて伴林光平や乾十郎といった志士と交友した。
文久3年(1863年)8月13日の孝明天皇大和行幸を契機に中山忠光に謁見し、名を平岡武夫にあらため、天誅組の一員として転戦した。天誅組の変が失敗に終わった後は京都や大坂を転々とし、元治元年(1864年)には天狗党の乱にも加わった。その後、大場一真斎や橋本若狭と共謀して薩摩に逃れる。同地で忠勇隊を組織。明治維新に際して、同志を率いて駿府の有栖川宮熾仁親王のもとに向かい、爾来、作戦行動をともにする。この頃、北畠治房を名乗るようになる。
官僚としての経歴とその後
明治初期に東京に居を移し、勤王家として大隈重信の寵愛を受ける。明治4年(1871年)に正院御用を任ぜられ、翌明治5年(1872年)に左院中議生となる。明治6年(1873年)、政府は目安箱を廃止し、上書などの提出先を集議院に定めたが、これは北畠の建言によるものだったという。その後、司法省にて権少判事・少判事・権中判事・判事をつとめ、その間、京都裁判所長・横浜裁判所長・大審院判事を歴任する。明治14年(1881年)、明治十四年の政変により、大隈系の官僚のひとりとして免官となる。この間、河野敏鎌・牟田口元學・春木義彰・中野武營らとともに修進社を興し、明治15年(1882年)には立憲改進党の結成に参画した。
明治20年(1887年)に再仕官し、東京控訴院検事長となる。その後、同院評定官・大審院評定官を経て、明治24年(1891年)に大阪控訴院長となる。1896年(明治29年)6月5日、司法官としての長年の功労および、王政復古への勲功を評価され、正二位階および男爵を叙爵した。明治31年(1898年)に司法官を辞職。1908年(明治41年)5月9日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、1911年(明治44年)7月9日に任期満了となった。晩年は郷里の法隆寺村に隠棲した。1921年(大正10年)5月4日逝去。
北畠の法隆寺村の邸宅を布穀園と号し、1954年(昭和29年)から斑鳩町の結婚式場として用いられた。この邸宅は、2014年(平成26年)より「和CAFE 布穀薗」となっている。
親族
- 北畠具雄 - 長男、衆議院議員。
- 東良三郎 - 長女シゲ子の夫。衆議院議員、弁護士。
栄典
- 位階
- 1874年(明治7年)2月18日 - 正六位
- 勲章等
- 1888年(明治21年)12月26日 - 勲三等瑞宝章
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章
- 1891年(明治24年)3月30日 - 旭日中綬章
- 1895年(明治28年)12月29日 - 勲二等瑞宝章
脚注
参考文献
- 国史大辞典
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
関連項目
- 法隆寺




